一日の終わりに、「今日もよく話を聴いたな」とふと思うことはありませんか。
部下の相談、同僚の愚痴、会議のあとの立ち話し。
友人の悩み。家族の話。
誰かの言葉に耳を傾け、うなずき、時には助言もする。
そんなあなたはきっと、周りから「話しやすい人」「頼れる人」として信頼されているでしょう。
でも、ふと一人になった瞬間、妙な疲労感に襲われることがありませんか。
誰かと話しした時間がそこにはあった。
でも、自分自身とは、あまり話していない気がする。
なぜか自分の内側が、少しすり減っているような感覚。
今日、自分が何を感じていたのか、うまく思い出せないような感覚です。
なぜ、聴くことは私を消耗させるのだろう
なぜ、人の話を聴くことは、これほどまでに疲れるのでしょうか。
人の話を「聴く」という行為は、静かな行為ですが、実はかなりの労力を使います。
相手の表情や声のトーンを読み取る。
自分の反応をいったん脇に置いて、相手の言葉を最後まで受け止める。
「それは違うのではないか」と感じても、まずは遮らずに聴く。
これは、感情労働と呼ばれる働き方の一種です。
社会学者のアーリー・ホックシールドは、仕事の中で自分の感情を意図的に管理し続けることそのものが、目に見えないコストを伴うと指摘しました。相手のために自分の感情を調整するという行為は、身体を動かす労働とは違う種類の消耗を生む、という視点です。
聴くことが得意な人ほど、このコストに気づきにくいという面もあります。
うまくできてしまうがゆえに、「疲れている」という自分自身の信号を、後回しにしてしまうのです。
管理職として部下の話を聴く。同僚の相談に乗る。
家族の話を受け止める。友人の話を聴く。
立場や相手はそれぞれ違っても、構造はよく似ています。
相手に意識を向け続けた時間の分だけ、自分自身へ向ける意識は、静かに手薄になっていきます。
それは能力の問題ではなく、意識の配分の問題です。
加えて、これが仕事の場になると、しんどさは一段と増します。
本来、同じ目標に向かって走っているはずの相手から、自分とは違う思考や価値観を差し出されたとき、「なんか違うんだよな」と感じながらも、その場では誠実に耳を傾けなければならない。特に管理職やリーダーという立場にいると、この場面は日常的に訪れます。自分の感覚をいったん脇に置いて、相手の話を最後まで聴く。それを繰り返すうちに、気づかないところで、少しずつすり減っていくのです。
正直、私自身、これがまったく得意ではない瞬間があります。
けれど、その感覚が湧くこと自体は、悪いことではないと思っています。誠実であろうとするからこそ、負荷がかかる。負荷がかかっているからこそ、「今日はしんどい」というサインが出る。そのサインに気づけることもまた、自己調律の一部だと、たおは考えています。
誰かの話を聴くことは、価値のある仕事
対話や会話とは、ただ言葉を交わす行為ではなく、異なる人間同士のエネルギーが行き交う時間でもあります。相手の思考や価値観に触れるとき、私たちの感情は、思っている以上に揺さぶられます。それは、相手の言葉が「正しいか、間違っているか」とは関係なく起こることです。ただ違う人間の内側に触れた、というだけで、私たちの内側も、静かに波立つのです。
人の話を聴くという営みは、役職や場所を選びません。管理職として部下と向き合う人だけでなく、母として、友人として、あるいはただ「頼られる側」として、多くの人が日常的にこの負荷を担っています。20年以上働き、家庭でも職場でも、誰かの話を聴き続けてきた人にとっても、この感覚は決して他人事ではないかもしれません。
聴くことをやめる必要はありません。相手の話に耳を傾けることは、たいせつな時間です。ただ、聴き終えたあと、「では、私はどうだろう」と、自分自身に戻る時間を持てているかどうか。そこに、見過ごされがちな違和感の正体があるように思います。
聴くことに慣れている人ほど、自分に戻ることを後回しにしがちです。相手の感情には気づけるのに、自分の感情には、意外と気づけていない。そんなことが、案外多いのではないでしょうか。
聴いたあとに、少しだけ自分に戻る
今日、あなたはどれくらい、誰かの話を聴いたでしょうか。
そして、その分だけ、自分自身の話を、自分自身が聴けていたでしょうか。
大きな習慣を変える必要はありません。
誰かの話を聴き終えたあと、次の予定へ移る前に、一分だけ立ち止まってみる。
深く呼吸をして、「今、私は何を感じているだろう」と、自分自身に静かに問いかけてみる。
それだけで十分です。
答えが出なくてもかまいません。
「疲れている」でも、「よくわからない」でもいい。
大切なのは、相手の感覚から、自分の感覚へと、意識を一度戻すこと。
その一分間が、自分自身との関係を保つための、小さな自己調律になります。
